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蒼い水 作 FKRG
第1章 襲撃3
灰色の煙が真っ直ぐに立ち昇っていく。風は無い。周囲を取り巻く山々の頂きよりも高く昇った煙は徐々に拡散し薄くなり、AD二〇一二年五月三日の空に溶け込み消えていく。
煙は、守川小学校の校庭で紅蓮の炎を吹き上げて燃える大量の薪から吐き出されていた。その炎の中で、F中隊隊員の遺体が燃えている。
おぞましくも巨大な焚き火の周りを、KCD各中隊から派遣されてきた五十名近い兵士が取り囲んでいた。彼あるいは彼女らは、仲間の亡骸を焼く炎が弱まらぬように次々と薪を投げ込んでいる。皆、泣いていた。大声で泣き叫びながら半ばやけくそに薪を投げ込む者もいる。
県道上に停めたジープの脇に座りこんだ安城は、唇を噛み締めてその光景を見つめていた。
「桜のバカ野郎! なぜ死んだ? 殺しても死なないようなツラをしてたくせに」
心の中で怒鳴り散らす安城の耳に、くぐもった嗚咽が聞こえた。
「う、くく…」
すぐ横で、さゆりが膝を抱えてうずくまっていた。サイズの合わないダブダブの戦闘服の上からでさえ、その肩が震えているのが判る。中隊長付き護衛兵としては完全に失格だ。だが、安城にはさゆりを非難する気など全く起きなかった。
目の前で仲間が燃えている。そして何よりも、さゆりが実の姉妹のように仲良くしていた親友の市木亜衣が、あの中で燃えているのだ。泣かない方がおかしい。誰が彼女を非難できよう。
嗚咽を漏らすさゆりの横顔を見ているうちに、安城の心の中に何かが沸き起こってきた。だが、それが何なのか判らぬままに、右腕をさゆりの肩に廻した。
手が触れた時、さゆりは一瞬、体を固くした。しかし、すぐに力を抜き、安城の肩に寄り掛かってきた。
小鳥のように震える華奢な体を抱き締めながら、安城はそっとささやいた。
「遠慮なく泣いて良いぞ。俺の分まで泣いてくれ」
コクリと頷いたさゆりは、安城の肩に顔を押し付けて啜り泣きを始めた。戦闘服の布地が暖かい涙で濡れていく。
さゆりを抱きしめたまま、安城は荼毘の場に視線を戻した。
その瞳には燃え上がる炎が映っている。だが、頭の中では別の事を考えていた。F中隊を全滅させた敵について、だ。
F中隊の負傷者および行方不明者はゼロ、戦死者は百五十三名、つまり全員が戦死。文字通りの全滅だ。中隊隊員が持っていた銃の大半は発砲した痕跡がなかった。完全な奇襲を受け、反撃する暇も無く殺されたのだ。
しかし、敵の死体は一つも無い。いくら奇襲を掛けたと言っても、一人や二人の死傷者はあったはずだ。現に、敵の物らしい血に濡れた装備が幾つか発見されている。今まで神白市を襲ってきたバンディッツは、仲間の死体を回収するどころか、負傷して動けない者は置き去りにしていたというのに…。
F中隊を襲った敵は、今まで相手にしてきたバンディッツとは明らかに違う。的確な指揮の下で冷酷に相手を屠り、そして素早く姿を消す。訓練された戦闘集団…軍隊だ。
「しかし、それにしても…」
安城は無意識の内に呟いた。
「えっ?」
さゆりが涙に濡れた顔を上げた。泣き腫らして赤くなった目で、安城の顔を不安げに見つめる。
「何でもない。独り言だよ」
さゆりの肩に廻した腕にそっと力を込めた。安堵の表情を浮かべたさゆりは、再び安城の肩に顔を押し付けた。
「それにしても…」
今度は心の中で呟いた。
「F中隊を攻撃したタイミングは敵ながら鮮やかだ。鮮やか過ぎて怪しささえ感じるほどに…」
これまで守川町の守備に就いた部隊は、全ての兵力を守川小学校に集中し、必要に応じて分隊或いは小隊単位のパトロール隊を出すのが常だった。兵力を分散して守備に就いたのは昨日が初めてと言って良い。敵が何日も前から観察した上で襲撃を計画したとすれば、当然、守川小学校に対してのみ攻撃を加えたはずだ。
「だが、そうはしなかった」
中隊が分散しきった瞬間を狙い、四つの小隊に対して各個にそして同時に攻撃を加えたのだ。つい数時間前に決まったばかりの布陣を知っていたとしか思えない行動だ。
では、どうやって知ったのか?
「幹部の中に内通者がいる?」
昨日の会議に出席した幹部の内の誰か、或いは幹部にごく近い立場にいる者が、F中隊の布陣に関する情報をバンディッツに流したとすれば…。
「バカなっ!」
慌てて首を振った。
味方を疑うのはやめよう。自分以外の誰も信じられなくなる。本部に送った報告書にも、内通者に関しては言及しなかった。無用の混乱を起こすだけだ、と思ったからだ。
「だが、誰かにこの事を伝えておくべきだろう。信頼できる誰かに…」
小声で呟いた時、何かが崩れ落ちる音が聞こえた。
無意識のうちに足元に落としていた視線を慌てて校庭に向けると、櫓状に組み上げられていた薪は既に燃え尽きて崩れ落ちていた。炎の代わりに、白い灰だけが虚空に向かって立ち昇っている。F中隊隊員の荼毘が終わったのだ。
火がすっかり消えると、円筒形の小さなブリキ缶が地面に並べられた。その数は百五十三個、戦死したF中隊隊員の人数分だ。まだ熱さの残る灰の中から一つまみずつ骨が拾い上げられ、金属製の認識票と共に缶の中に収められていく。認識票と骨を入れた缶には蓋がかぶせられ、戦死者の名前と階級が書き込まれた。
遺骨を入れたブリキ缶は木箱に詰めこまれ、校庭の隅に停めてあったジープの後部座席に載せられた。
遺骨は、家族か親類に渡されるが、身寄りの無い…つまり引き取り手の無い遺骨は、KCDの共同墓地に葬られることになっている。F中隊隊員の火葬場となった場所は、いずれ盛り土をして小さな塚にする予定だ。
神白を守る為に死んだ者達の弔いにしては、余りに粗末で杜撰かもしれない。しかし、それがKCD…いや神白市が現状で出来うる精一杯の葬儀なのだ。
遺骨を載せたジープがゆっくりと動き始めた。その前後を数台のミニバンが寄り添うようにして進む。
車列の先頭が校庭を横切り県道に入ると、安城とさゆりは立ち上がった。目の前を通り過ぎて行くジープに向かって敬礼する。
ジープを運転する兵士も助手席に座る兵士も、泣き腫らした赤い目をしていた。後部座席に座った兵士…女性兵士だった…は、遺骨を入れた箱に覆いかぶさるようにして肩を震わせていた。
「あの人、B中隊の大月さんだわ。確か、F中隊の高橋さんと結婚の約束をしてたはず」
敬礼の手を下ろしたさゆりが小声で言った。
高橋篤史上級兵は、桜のジープの助手席でハンドセットを握り締めたまま絶命していた。眉間に銃弾を受けて…。
(結婚? 結婚の約束?)
安城の頭の中に、あの悪夢がよみがえった。
「玲子、おまえもだ。早く逃げろ! え? 結婚式はいつになるかって? そんな事、このクソ忌々しい戦争が終わってから考えれば良いじゃないか! 愛してるかって? 当たり前だろ、愛してるよ。だから早く、早く逃げてくれ!」
「弘一さん、熱い! 助けて!」
長距離弾道弾が起こした劫火の中で、生きながら焼かれる玲子の悲鳴が頭の中を駆け巡った。目に見えないヤスリが安城の心をギシギシと削り、神経をケバ立たせた。
「こんな狂った時代に結婚? 結婚して子供が出来たら、その子供に何を残してやると言うんだ。バンディッツに狙われ続け、血と硝煙で薄汚れた神白の街か? 瓦礫と穴ぼこだらけの焦土と化したこの日本か?」
小さくなっていく車列を見据えながら、安城は吐き捨てるように言った。
「いいえ、違います!」
さゆりが、かすれ声で叫んだ。張り裂けそうなほどに目を開き、安城の顔をまっすぐに見つめている。
「バンディッツなど来ない神白を、貧しいけど平和な日本を残すんです」
その言葉を聞いて、ケバだった神経に火がついた。火は瞬時に怒りの炎と化し、安城は全身を震わせながら怒鳴り声を上げた。
「バンディッツなど来ない神白!? 貧しいけど平和な日本!? バカな、何をお気楽な事を言ってる! 現実を見てみろっ! 俺は戦争で何もかも失った。家族も親戚も最愛の女も! そして今、親友の桜も失った。小川、オマエだって・・・。いや他のやつらだってそうだろうが! 俺達は、もう何も持ってないんだ! そんな俺達が、一体何を残せると言うんだ!?」
激情の嵐は一分も続かなかった。不意に安城は我に帰った。
(俺は何に向かって…。誰に向かって怒っていたんだ?)
視線を、さゆりに向けた。
さゆりは唇を一直線に引き結び、哀しげな目で安城を見つめていた。
怒りの炎は跡形も無く消え去り、代わりに冷たい自己嫌悪の風が心の中を吹き抜けていくのを安城は感じた。さゆりに謝ろうと思った。
(だが、どう謝るべきなのか・・・)
謝罪の言葉が浮かばぬまま、安城は顔をそむけた。
*
夕闇が迫る空の下、F中隊隊員の遺骨を積んだジープが陰気なエンジンを響かせて神白市庁舎敷地内の駐車場に入って来た。ジープが停車すると、待ち受けていた百名近い人々がその周りを取り囲んだ。
遺骨の入った箱を抱き締めていた大月良子が、よろめきながら立ち上がった。その頬はげっそりと削げ落ち、幽鬼のように蒼ざめている。
「遺骨をお渡しします。…遺族の方は、こちらに来て受け取って下さい」
ジープを囲む人々に呼びかけてから、震える指で箱の蓋を開ける。箱に収められたブリキ缶を見て、人々の間から低いどよめきが起きた。
缶の一つを取り上げた良子は、蓋に書き込まれた名前と階級をかすれた声で読み上げた。
「島倉甲太初級兵」
「ひっ!」
初老の女性が、か細い悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。おそらく母親だろう。
良子は、隣に立っていた兵士に缶を渡した。うなずいた兵士は母親に駆け寄り、小さな缶をその手に握らせた。
すすり泣きと慰めの声を聞きながら、良子は次の缶を取り上げた。
「大沢健二上級兵」
名前を読み上げてすぐに、後ろに立つ兵士に缶を渡す。大沢の肉親も縁者も既にこの世に居ない事を誰もが承知していた。
死者の名前が次々と読み上げられていく。遺骨を引き取った者は皆、一様に唇を噛み締めて嗚咽を漏らしながら去って行った。
残り少なくなった缶の一つを取り上げた良子の顔が、不意に引き吊った。
「た、高橋、高橋篤史…。い、いやー!」
それまで感情を表に出さず、機械的な声と動作でブリキ缶を扱っていた良子だった。だが、婚約者の名を読み上げた途端に理性の糸が断ち切れたのだろう。その場に崩折れ、大声で泣き始めた。
WW3が始まって以来、死はそれ以前の数千倍の確率で人々の周りにつきまとい続けた。昨日、笑顔で別れた肉親が、或いは友人が、今日は冷たい骸となって目の前に横たわる。人々はそれに慣れようとした。だが、正気である限り決して慣れることは出来なかった。
神白市市長兼KCD司令官 島崎順一は、市庁舎三階にある市長室の窓からその悲劇を見つめていた。
江戸時代から続く旧家であり、そしてまた多くの政治家を輩出してきた島崎家の長男として生まれ育った彼は、ひょろりとした長身と色白で品のある顔つきの持ち主であり、市長になる前は国立大学の政治経済学の講師として教鞭を執っていた。そういう生い立ちと経歴の為か、四十代後半に達した今でも“温和で頼りなげなおぼっちゃま”という印象を見る人に与える。
確かに島崎の性格は温和で、しかも呆れるほどに慈悲深い。バンディッツの襲撃に怖れをなした人々が続々と神白から脱出し始めた時、それを咎めるどころか、「当座の食料にするように」と、JAの倉庫に蓄えられていた米を分け与えたエピソードからも窺い知れる。
だが、“頼りなげな”というのは外見だけの印象であり、彼の本質を衝いてはいない。島崎はしたたかな政治感覚の持ち主でもあった。
「逃げ出して行く者たちに気前良く食料を渡していては、我々の食料が無くなってしまいます。逃亡を阻止するか、それが無理なら食料を渡すのをやめて下さい」
神白に踏み止まることを選んだ人々が島崎に詰め寄った時、彼は顔色も変えずにこう答えた。
「食料が無くなる? では聞くが、備蓄食料は無限にあるのか? 渡そうが渡すまいが、食料はいずれ底をつく。どうせ無くなる物なら、餞別代わりに渡せば良いではないか。逃亡を阻止しろ? どうやって? 力ずくでか? そんなことをすれば、出て行こうとした者と引き止めようとした者の間に埋め難い溝が残るだけだ。出て行きたいと言うのなら、笑顔で見送ってやろうじゃないか。この神白には、良質の水と耕作可能な農地が残っている。そして、踏み止まる者の数は、私の推定では二万人近くになるはずだ。残った者が力を合わせれば自給自足は充分に可能だ。いや、敢えてはっきり言ってしまおう。五万人もの人間は今の神白には多過ぎる。自給自足をするにもバンディッツの襲撃から街を守るにも、性根の入った二万人が残っていれば充分だ。二、三年もすれば自給自足の態勢は完備し、余剰食料を備蓄できるようになるだろう。進行中のKCDの再編が済めば、バンディッツの襲撃による被害も減少するはずだ。そうなれば、出て行った連中も戻って来る。バツの悪い顔をして頭を掻きながら、“済まなかった。もう一度仲間に入れてくれ”と、頭を下げて…。その時は、笑顔で迎えてやれば良い。きっと、そうなる。いや、そうして見せる。だから私を、そして川村中尉が指揮するKCDを信じて欲しい」
島崎の自信に満ちた態度と口調に、人々は安堵し従うことを誓った。
だが今、島崎の色白の顔は蒼ざめ、噛み締めた唇には血が滲んでいた。
「なんと言うことだ」
深い溜息をついた島崎は、“もはや見るに耐えられない”という表情を浮かべて窓に背を向けた。そして、目の前に立っている男を、赤くなった目で睨みつけた。
「なぜだ? 今年初めの襲撃を最後にしてバンディッツの活動は弱まり、穏やかな日々が続いた。私は、いや我々は、この平穏がずっと続くものと…」
「甘かったのです。我々の、いや私の見通しが…。責任は痛感しております」
目の前に立っている男…KCD副司令官 川村翔中尉は、落ちつき払った表情で島崎の視線と声を受け止めた。
代々、優秀な軍人を輩出してきた川村家に生まれた彼の容貌は、見事なほどに島崎と対照的だ。武人と呼ぶに相応しい、がっしりした体つきと引き締まった顔付きをしている。年齢は四十を過ぎたばかりだが、太く落ちついた声と全てを見透かすような目は、相対する者に深い安堵感と大きな威圧感を同時に与える。
「責任? 責任は私にもある。いや、全ての責任は私にあるのだ」
吐き捨てるようにそう言うと、島崎はそっぽを向いた。
気まずい沈黙が、神白を統治する二人の男の間に流れた。
神白市の全住民二万人は現在、市域北端に位置する神白市街地に居住している。一年前のAD二〇一一年六月、それまで市内各所に散在していた住民を島崎が説得し移住させたのだ。“住民が一箇所に固まっている方が守り易い”という軍事的な理由でこの移住案を提唱したのは、KCD副司令官である川村だった。
移住開始と前後して、川村はKCDの再編成を行った。それまでの、命令系統も定かでなかった“烏合の衆のKCD”を一旦解散し、改めて隊員を募ったのだ。
再編成と移住作業が進む中、朗報がもたらされた。
神白市西方に位置する大町市にある防衛軍駐屯地跡の地下倉庫から、合計五千丁近い軽機関銃、自動小銃、サブマシンガン、拳銃とそれらに使用する弾丸千万発、迫撃砲とその砲弾、手榴弾、爆薬、数万食分の携帯口糧、更には一個連隊分に相当する戦闘服などの装備品を回収する事に成功したのだ。
小火器ばかりとは言え潤沢な武器を入手することが出来たKCDは、AからGまでの七個戦闘中隊と司令部直属の親衛中隊二個から成る、総人員千数百名の小規模ではあるがそれなりに統率の取れた防衛組織に生まれ変わった。
司令官は市長である島崎がそのまま兼任したが、階級も文官である事を優先し再編前と同じく持たなかった。だがそこから先で、些細な事だが問題が一つ起きた。副司令官である川村が、なぜか防衛軍時代の階級である中尉に固執したのだ。
「小なりといえどもKCDは一個の軍事組織だ。その実質的な指導者の階級が中尉では格好がつかない。将軍とまでは言わないが、せめて大佐くらいは・・・」
という意見を述べる者に、川村は苦笑混じりでこう答えた。
「考えてもみろ。旧防衛軍の軍制に照らせば一個連隊にも満たない規模の、しかも素人が大半の集団に大佐が居る方がおかしい。中尉で充分さ。階級もゴチャゴチャ設ける必要はない。士官は中尉と少尉と准尉。兵士の区別は上級兵と初級兵で充分だ」
これには誰も反論できなかった。
かくして、旧防衛軍において少尉以上の位を持っていた者は全て一律に少尉ということになった。そして少尉未満だった者は、その経験や能力に応じて准尉または上級兵に任じられ、兵役経験の無い者は短期間の基礎訓練を施された上で初級兵に任じられた。
こうして再編成終了以来一年近くの間、KCDは神白市街地とそこに住む人々の生命財産をバンディッツから守り続けてきたのだった。
しばしの沈黙の後、島崎は川村に視線を戻した。その目は相変わらず赤く潤み、表情も強張っていたが。先ほどまでの激情は影を潜めていた。
「すまなかった、川村中尉。私は、私が愛する人々が嘆き哀しむ姿を見ることに、いつまで経っても慣れることが出来ないのだ」
「何を仰るのです。それこそが、人間として自然な感情です。私はそれを時として忘れてしまう。WW3勃発以来、私は自分の手を血で汚し続けてきました。防衛軍でも、そしてKCDの副司令官になってからも。私の手は血に汚れているのです。私は…」
次の言葉を捜す川村を、島崎は静かに首を振って制した。
「君の手は確かに血で汚れている。だが、君にそうしろと命じたのは、戦時下では君の上官達だった。そして今は、この私だ。私が君に命じたのだ。“この街と、この街に住む人達を守ってくれ。その為に君の手を血で汚してくれ”と…。そう、私の手が一番汚れている。血ではなく卑怯者という汚れで、だ。殺し合いは全て君や兵士達に押し付けておいて、自分自身は戦場には立とうとはしないこの私の手が、一番汚れている」
島崎の顔は苦悶に歪んでいた。
「市長、ご自分を責めるのはお止め下さい。あなたはこの神白市と住民を守る為に最善を尽くしておられる。この街が日本全土、いや全世界の都市のように瓦礫と灰燼の中に埋もれずに済んだのは、あなたの功績なのです。その事は、私を含めて神白に住む者全てが承知している」
「いや、それは私の功績では…」
「いえ、あなたの功績です」
前世紀末より続く経済不況と、自衛隊の防衛軍改組に象徴される戦争への不安が人々の間に渦巻いていたAD二〇〇四年の春。
神白市長に就任した島崎順一は、“神白市に軍需工場と軍事基地を建設させないこと”に全精力を傾ける決意を胸に秘めていた。長引く全世界規模の不況がやがて全世界規模の戦争を誘発するであろう事を、そしてその戦争が長期に渡った場合、人々がどのような形で被害を受けるかを予測していたからだ。
しかし、戦争へと動き出した巨大な歴史の歯車を、一地方都市の首長に過ぎない島崎が止めることなど絶対に不可能だ。だが、戦禍が直接、神白市に及ばない様にする事は必ずしも不可能ではない。要は、攻撃目標になるような軍事基地や軍需産業が神白に存在しなければ良いのだ。
島崎が市長に就任した直後、防衛軍による神白空軍基地建設計画と、国土エネルギー省による奥川村ダム拡大工事計画がほぼ同時に持ち上がった。この二つの計画が実行されれば、神白は巨大な戦略目標を有する都市になってしまうのは明らかだった。
「どんな手段を講じても、この二つの計画は潰さねばならない」
島崎は、生家である島崎家が明治以来営々と築いてきた“中央政界との太い人脈”をフルに活用して、この二つの計画を廃案に追い込むことに成功した。WW3勃発前後に建設され、今では神白の貴重なエネルギー源となっている地下燃料備蓄庫と神子川風力発電所は、防衛軍と国土エネルギー省それぞれの面子を保つ為の代替事業に過ぎなかったのだ。
しかし神白市域に主要な軍需施設、軍需産業が無くとも、周辺の都市にはそれらがあるのだから、“流れ弾が当たる可能性“も大いにあった。
だが、島崎の努力は結果として功を奏した。
WW3末期、敵陣営が放った無数の長距離弾道弾が殆ど全ての都市を瓦礫と灰燼の廃墟に変貌させていった中で、神白市に飛来した弾道弾は僅かに二発だけだった。
一発は、市街地東南にあった北陽高速道路神白インターチェンジを直撃し、巨大なクレーターに変えた。だが、地下燃料備蓄庫を狙ったもう一発の弾道弾は、備蓄庫に備え付けられていた誘導電波妨害装置によって狙いを大きく外し、神白沖の日本海に巨大な水柱を造り上げて四散した。
かくして、島崎の努力と僥倖に助けられた神白市は、実質的な戦禍を殆ど受ける事無く、WW3の終結を迎えたのだった。
「市長、あなたは将来を見通す能力に恵まれています。そして行政にも長けている。それに比べて、私は軍事にしか能が無い。私の戦場は文字通り弾が飛び交う戦場です。だが、あなたの戦場はこの部屋だ。そう、この市長室のデスクが、あなたの戦場なのです。私の職務はバンディッツと戦うことだけだが、あなたの職務は二万人の神白市民の明日を、いや十年、二十年先の未来をも考える事なのです」
島崎は浮かぬ顔で口を開いた。
「私には、君のように軍事に関する素質も能力も無い。私に出来る事は、差し出された書類に目を通して決裁する事だけだ。そして、明日の最初の仕事は、死亡が確認されたF中隊隊員の名簿に目を通すことだ」
「そ、それは…」
絶句した川村を見つめて、島崎は強ばった笑いを浮かべた。
「皮肉ではない。それが私の仕事なのだから…。だが、私は逃げたりはしないよ。いつか…。それが何年先になるのか判らないが…。戦争前のように平和な神白市を再建するまで、私は絶対に逃げない」
喋っているうちに島崎の顔から強張りは消え去り、いつもの穏やかな表情に変わっていた。
「川村中尉、君には話したかな? 今年の内に四十人の人間がこの街に加わることを」
「は?」
川村は、怪訝そうな表情を浮かべた。
「赤ん坊だよ。四十人の赤ん坊が生まれるんだ。刹那的な感情に任せての結果ではない。両親に望まれた赤ん坊だ。市民の間に未来を夢見る余裕が生まれてきた証拠だと、私は思っている。君とKCDの兵士達のおかげだ。だから川村中尉、平和を…市民が安心して子供を産み育てられる平和を、これからも維持してくれ。お願いだ」
「子供を産み育てる」
当惑した様に呟いた川村は、そのまま黙り込んで俯くと指先で右眉の上辺りをなぞり始めた。それが、思考を集中している時の彼の癖なのだ。
さして長くも無い沈黙の後、川村は顔を上げた。
「承知しました。お任せ下さい」
その声と表情は、いつもの落ち着いたものに戻っていた。
「その為にも善後策を早急に練らねばなりません。今からその件に関して、参謀の梨村と打ち合わせを行う予定です。今夜は、これで失礼いたします」
直立不動の姿勢をとった川村は、島崎に向かって一分の隙も無い見事な敬礼をした。
部下達の礼儀の悪さには鷹揚な川村だが、自分自身にはそれを許さなかった。唯一の上司である島崎に対しては無論のこと、部下に対しても相応の礼を欠かさない。それが、川村が根っからの軍人であることの証左だった。
「う、うむ。宜しく、頼む」
島崎も慌てて答礼した。もっともこちらは、ぎこちなさの点で小川さゆりと似たような物だったが…。
敬礼を終えた川村はクルリと踵を返し、廊下に続くドアへと向かった。
川村の足音が遠ざかると、島崎は小さな溜息を漏らした。
「今日は、もう少し話し相手になって欲しかったんだが…」
淋しげに呟きながら窓際に近寄り、駐車場を見下す。薄暗い駐車場には、既に誰もいなかった。
以下次号