[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
蒼い水 作 FKRG
第1章 襲撃4
堅木をうち合わせるような乾いた銃声が、木原町を囲む山々に木霊した。その木霊を掻き消すように女の悲鳴が聞こえ、何人かの男達の下卑た笑い声がそれに重なった。
「ちっ!」
忌々しげに舌打ちした蒼い水参謀 渋沢鼎は、口に入れかけていた肉片をフォークごと皿に戻した。
「おいっ! 誰か…」
「止めとけ、渋沢」
扉の外に立つ衛兵を呼ぼうと腰を浮かした渋沢を、地鳴りを思わすような低く太い声が制した。
「ですが、総帥」
渋沢は神経質そうな顔を声の主に向けた。
「奴らにも少しは楽しませてやれ。ここしばらく、女とは縁が無かったんだからな」
声の主…蒼い水総帥 如月正一は、素っ気無い口調で言い足した。
顔つきや体つきを表現する言葉の内の一つに“容貌魁偉”という熟語があるが、如月の場合は“容貌怪異”、いや“風貌怪異”と言うべきだろう。
短く刈りこんだ茶色っぽい頭髪の下で、ぎょろりとした目が辺りを睥睨するように光っている。大きく扁平な鼻に分厚い唇と角張った顎、身長は一九〇センチを超えており、胸板は上着のボタンが弾き飛ばないのが不思議なほどに分厚い。腕の太さに至っては常人の太腿ほどもある。“人語を解するゴリラ”と表現して間違いない風貌だ。
そのゴリラ…如月に、渋沢はなおも食い下がった。
「しかし、女を襲うのに銃を撃つなど…」
「いいじゃないか、一発や二発。俺達は規則規則で四角四面だった防衛軍でも無いし、ボーイスカウトもどきのKCDでもない。ごろつきの寄せ集め、バンディッツさ」
自嘲的な笑いを浮かべた如月は、目の前の皿に盛られた分厚い肉にナイフを突き立てた。
「それにしても、この肉は筋が多いな」
半ば千切るように切り取った肉片を頬ばり、碁石を並べたような歯を使って咀嚼する。
やれやれという素振りでイスに座りなおした渋沢だったが、再び肉に手をつけようとはしなかった。目の前の皿に載っている肉は、“ごく普通の顎と歯の持ち主”である渋沢が咀嚼するには余りにも固すぎた。
代わりに、付け合せのフライドポテトを口に放り込んだ。だが、そのポテトは充分に揚がっておらず、中心部に至っては殆ど生だった。
「まったく、ポテトくらいまともに揚げろよな。あの女」
ベッドで男を悦ばす以外に何のとりえも無いあの女…村辻香織の顔を思い浮かべながら、心の中で毒づく。
「どうした、久しぶりの肉だと言うのにもう食わんのか? 勿体無い。せっかく香織が作ってくれたのに…」
如月の皿に盛られていたビフテキ…渋沢の皿に盛られているそれの優に三倍以上の大きさだった…は、綺麗に無くなっていた。山盛りにされていた“生揚げのフライドポテト”も、一欠けらも残っていない。
「いや、もう充分に頂きました」
如月の人間離れした食欲に半ば呆れ半ば圧倒されながら、渋沢はコップの水を一口飲んだ。
「旨い」
ほっと溜息を漏らす。神白川から汲ませて来た水だ。いつも飲んでいる薬臭く苦い水ではない。
「う~ん。食った、食った」
最後の肉片を飲み込んだ如月は、コップではなくボトルを取り上げた。一リットル近い量の水を、ゴクゴクと喉を鳴らして一息に飲み干す。
「確かに旨いな、この水は。お前が言う通り、この水を得る為だけでも神白を手に入れる価値は充分に有る。おまけに、あの街には若い女が沢山いるらしいしな」
手の甲で口元を拭いながら下卑た笑いを浮かべる。
「は、はあ…」
まさか、「この好色ゴリラ野郎」とは、口が裂けても言えない。返答に詰まった渋沢が困惑の表情を浮かべた時、背筋がぞくりとするほど艶っぽい女の声が聞こえた。
「あら、若い女がどうしたって?」
二人は同時に、声が聞こえた方に視線を向けた。
廊下に通じる扉が何時の間にか開いていた。艶然と微笑む村辻香織が、扉の横の壁に寄りかかるようにして立っている。
香織は、卵型の小さな顔を持つ都会的な美人だ。
ファッションモデルのようにスラリと均整のとれた体に、灰青色を基調にした都市型迷彩服を着ている。だが、上着は袖を通しただけでボタンを留めていない為に前が大きく開き、Tシャツ越しに豊満な胸の形が露わになっていた。
「ん、い、いや…。“KCDは若い女まで兵士にしている。そんな脆弱な奴ら、俺達にかかればヒトヒネリだ”と、話してたんだよ。なあ、渋沢」
如月の表情と口調は、つい先程までの倣岸不遜なものからオドオドしたものに急変していた。
「ええ、まあ」
要領を得ない返事をした渋沢は、狼狽する如月の横顔を皮肉な目で一瞥し、そして心の中で苦笑した。
「相変わらず尻に敷かれてるな。ゴリラ野郎」
数ヶ月前、如月率いる蒼い水は小さな定住者集団を襲撃した。その定住者集団の只一人の生き残りが村辻香織だった。香織を一目見て気に入った如月は、彼女を自分の情婦にした。しかし果たして、香織を情婦にしたのか香織の情夫にされたのか…。
如月は、敵対するバンディッツ集団や意に添わない定住者集団を襲い屈服させると、生き残った女を陵辱するのを常としていた。だが、香織を得て以来、それを全くしなくなった。ごくたまに好みの女を見つけては目尻を下げる事もあるが、香織に鋭い一瞥を投げ掛けられると、諦めの表情を浮かべて首を竦めてしまう。
要するに、如月は香織の尻に敷かれてしまったのだ。
総帥たる如月がこうなのだから、何時の間にかその部下達も、香織を幹部の一人として扱うようになってしまった。
だが生来そういう気質なのか、それとも女一人で苛酷な環境を生き抜く為に身に付けた知恵なのか…。香織は、如月の威を借りて偉ぶったり、蒼い水のやり方に口を挟むような言動を決して取ろうとはしなかった。それどころか愛嬌タップリに如月の部下達に接したので、彼らの反感を買うことも皆無だった。
もっとも、余りに愛嬌タップリな香織の態度に鼻の下を伸ばし過ぎた為に、嫉妬に狂った如月によって半殺しの目に遭わされた気の毒な者も何人かは居たが…。
ドアを後ろ手に閉じた香織は、颯爽とした足取りでテーブルに近づいて来た。
如月が慌てて自分の横のイスを後に引く。
当然という態度でそのイスに座った香織は、カモシカのようにすらりと伸びた長い脚を組んだ。肩まで伸ばした艶やかな黒髪を右手で軽く掻き揚げる。甘く官能的な香りがテーブルの周りに広がった。
男を引きつけるフェロモンを全身から発散する妖艶な美女。それが村辻香織だ。如月ならずとも夢中になるのも無理はない。
「で、計画は順調なの?」
“それほど興味は無いけど、退屈しのぎに聞いてあげる”と言わんばかりの表情で、如月に流し目をくれる。
「おう、順調だ。あと二,三日で兵力の終結が完了する。そうだったな? 渋沢」
「大村の東部遊撃隊と浅井の西部遊撃隊は、明日の午後にこの木原町に到着し、明後日早朝、神白に向けて出発します。そして入れ替わりに突撃隊と後衛隊が…つまり我が蒼い水の主力部隊が、ここに到着する予定です」
いかにも参謀、という口調で渋沢は答えた。
「そして、神白に向けて進撃を開始する。間も無く・・・そう、数日も経ぬうちに、神白の全てが俺達の物になる。そして俺達は神白を根城に力を蓄え、他の地方のバンディッツ集団や定住者集団を支配下に組み入れる。そして、俺はこの国の…」
「キングになる?」
「そうだ」
得意満面の笑いを浮かべた如月は、香織の背中に太い腕を廻した。
「そして香織。お前はクイーンだ」
グローブのようなごつい手で香織の背中を撫でまわしながら上機嫌でささやく。
「ふふ、クイーンねえ」
くすぐったそうに笑った香織は、無邪気な口調で如月に質問した。
「でも一個中隊を全滅させたといっても、KCDの兵力はまだ千二百は残っているんでしょ? それに、いざとなればKCD以外の住民も武器を執って戦うんじゃない? それも、文字通り命懸けで…。そうなると、戦力にならない年寄りや女子供を除外したとしても、大雑把に言って一万数千人が抵抗する事になるわ。対して、こちらの兵力は、先遣部隊から後衛隊まで全部合わせても二千七百。武器は、こちらもあちらも小銃と機関銃と迫撃砲なんかの小火器ばかりだから大差無いわよね。一万数千対二千七百かあ。かなり、戦力差があるわねえ。それに神白の街って、北は日本海に面してて、東と西と南は川に囲まれてる。川に架かってる橋を全部落としたら一種の城塞だわ。どうやって攻める気なの?」
香織の質問に、二人の男は顔を見合わせて沈黙してしまった。もっとも、沈黙する理由は違っていたが…。
如月が沈黙したのは、香織の質問に正確に答える事ができない為だった。つい一時間ほど前に渋沢から作戦の概要を聞いたばかりなのだが、どうやら肉と一緒に胃袋に収めて消化してしまったらしい。暫くの間、口の中でモゴモゴ言っていたが、やがて歯切れの悪い口調で呟いた。
「ん、まあ、そうなんだが。その点は充分考えてある。渋沢、説明してやってくれ」
「は、はあ」
香織の思いもかけない鋭い質問に驚いて沈黙していた渋沢だったが、如月に促されると淀みの無い口調で喋り始めた。
「ご指摘の通り橋を全て落とせば、神白市街地は海と川に囲まれた一種の城塞と言えるでしょう。“城にこもった敵を攻めるには、少なくとも敵の倍以上の兵力が必要である”…これは戦術上の常識です。その点、どう贔屓目に見てもこちらの不利は明らかです。しかし…」
「しかし?」
語尾をオウム返しに繰り返した香織が、渋沢の顔を正面から見つめた。長い睫毛の下で、磨き上げた黒真珠を思わせる瞳が妖しく輝いている。男を狂わせ、そして破滅させる危険な瞳だ。
「ん、ごほんっ」
その瞳に吸い込まれそうな錯覚を起こした渋沢は、わざとらしく咳払いをして目をそらせた。
「簡単な地図を描いて説明しましょう」
イスから立ち上がった渋沢は、背後の壁に掛けられたホワイトボードに歩み寄った。東西約二十五キロ、南北約三十キロ弱の神白市の略図を、黒色のマーカーを使ってボード一杯に描いていく。
日本海に面する神白市街地は、神白川がその河口に堆積させた土砂によって形成された三角州の上に成り立っている。
神白川の総延長は四十数キロ。神白市域最南端の奥川村ダムを源として市域のほぼ中央を南北に貫流している。上流部分はクネクネと曲る谷川だが、中流域…神白市域のほぼ中央に位置する守川町の辺りになると周囲から流れ込む中小の河川が合流して川幅も広がり、それ以降は緩やかに蛇行しながら北へ流れていく。
そして、神白城址の北一キロの地点で、流れは三つに分かれる。
本流である神白川はそのまま北へ流れ、神白市街地の中央を貫いて日本海に達する。二つの支流の内、神子川と呼ばれる支流は緩やかに湾曲しながら東北方向へ流れ、市街地の東に広がる広大な松林を抜けて日本海に流れ込む。そして、もう一つの支流である鳥井川は、神子川とは逆に西北方向に湾曲し、神白市街地の西端を掠めて海に流れ込んでいる。
神子川と鳥井川に囲まれたややイビツな半円の中に立地している神白市街地に入る陸路は、東からも西からも、そして南からも一つずつしかない。
東と西は、かつて北陽地方の大動脈だった国道16号線を辿ることになる。神子川に架かる神子橋を渡って東から入るコースと、鳥井川に架かる北鳥井橋を渡って西から入るコースの二つだ。
南は、県道19号線を辿る。神白城址を通過し、神白川から分流したばかりの鳥井川に架かる南鳥井橋を渡り、旧神白町と呼ばれる小集落を通り抜けて神白市街地に至るコースだ。
以前は、大小二十近い橋が神子川、鳥井川の各所に架けられていた。だが今は、北鳥井橋、南鳥井橋、神子橋以外の橋は全て、外部からの侵入を防ぐ為に破壊されている。
神白市の略図を描き終えた渋沢は、ホワイトボードの全面が見えるように体を横にずらした。右手に一メートルほどの長さの細い棒を握っている。
「改めて説明しましょう。まず、神白は城塞ではない、と言う事です」
ボード上の神白市街地を、棒の先端でコツコツと叩く。
「神子川と鳥井川に掛かる三つの橋を全て破壊してしまえば、北は海、東と西と南は川に囲まれた神白市街地は、堀に囲まれた周囲十数キロの城塞と見なす事が出来る。二万人の人間がいれば守ることも可能だろう。但しそれは、二万人の人間全てが訓練された完全武装の兵士である、というのが前提であり、現在の神白の状況からいえば絵空事に過ぎない。KCDの幹部達は、その事を良く承知している。だから、神白市街地に侵入しようとする者が必ず通るであろう要所に、監視を兼ねた守備部隊を配置している」
言いながら渋沢は、KCD各中隊を表わすアルファベットを書き込んだ丸いマグネットを地図の上に貼り付け始めた。
まず、B中隊を表わすBのマグネットと親衛第一、第二中隊を表わすS1とS2のマグネットを神白市街地の上に貼り付ける。ついで、市街地の西数キロにある北陽高速道路神白インターチェンジ跡付近にD中隊を表わすDのマグネットを貼り付け、地図の最下部…つまり市域南端の奥川村ダムにG、市域中央の守川町にC、市街地南郊の神白城址にE、最後に北鳥井橋の西数キロの国道16号線上にAと、次々に貼り付けていった。F中隊を表わすFのマグネットは、当然の事ながら何処にも貼り付けなかった。
「この部隊配置は、KCD中枢部に潜り込んでいる協力者からもたらされた最新の情報によるものです。一見すると兵力分散の愚を犯しているように見える。だがしかし、侵攻して来る敵兵力が四、五百人までならば、悪くは無い配置だ。仮に、市街地西郊に配置されたA中隊を包囲したとしても…」
渋沢は、A中隊を表すマグネットを囲むようにして青色の円を描いた。
「二十分以内に、二個中隊の兵力が救援に駆けつける」
市街地に貼り付けていたBとS2のマグネットを摘み上げ、円の東側に貼り付ける。
「他方向からの攻撃が無いと判れば、更に…」
神白城址のEのマグネットを摘み上げ、円の周りに張り付ける。
「あと一個中隊が加わる。これだけで、襲撃してきた敵は後退を余儀なくされる。その上…」
残ったマグネットの全てを神白市街地に移動させる。
「一時間程で、残りの全部隊を集結させることも可能だ。戦える住民全員が武器を取るのは言うまでもない。つまり、中途半端な兵力で神白市街地を奪取することは不可能、と言うことです。有力なバンディッツ集団が幾度も神白を襲撃したが、彼らは何の策略も講じず、ただ力任せにKCDをねじ伏せようとしたが為に、ことごとく撃退されている」
渋沢は侮蔑を込めた口調で言った。
「でも、そのお蔭で“蒼い水”はここまで大きくなったのよね。弱体化したライバル達を吸収統合して…」
香織の皮肉っぽい声に、渋沢はそれまでボードに向けていた視線を自分のボスとその情婦に向けた。
ボス…如月は、香織の腰に腕を廻したまま居眠りをしていた。
「やれやれ…」
低く溜息を漏らした渋沢だったが、驚きも怒りもしなかった。食いたい時に食い、眠りたい時に眠る。それが如月だという事を、この一年ほどの付き合いの間に熟知していたからだ。
だが、意想外な事に、香織の黒い瞳は“興味津々”という光りを湛えてボードに描かれた地図を凝視していた。
「あら、どうしたの? 続けてよ。これからが本題なんでしょう?」
そう言ってから香織は、渋沢の視線が如月に注がれているのに気付きクスリと笑った。
「あらあら、居眠りしちゃって。ややこしい話になると、すぐこうなんだから。あなたも大変ね。こんな、脳味噌まで筋肉みたいな人の参謀を務めなきゃならないんだから」
「い、いや。そんな事はありません」
慌てて否定した渋沢だったが、その言葉が本心からでないことは明らかだった。
狼狽する渋沢を悪戯っぽく見つめながら、香織は言葉を継いだ。
「気にしなくても良いわ。本当の事なんだから。この人、いつも言ってるのよ。“渋沢が居なかったら、俺はここまで成れなかった。何しろ、俺の脳味噌は筋肉で出来てるんだからな。ややこしい事は全て渋沢任せさ”って…。だから、如月の代わりに私が聞かせてもらうわ。あなたの立てた神白攻略作戦を、ね」
「は、はあ、それでは…」
曖昧に頷いた渋沢だったが、その頭の中は、香織に対する認識を改めるのにおおわらわだった。
(この女は只のズベタではない。ひょっとすると、羊の皮を被った女狐? 最悪の場合、俺たちの計画を阻害する存在になるかもしれない。だが、まあ、始末しようと思えばいつでも出来る。今夜のところは、作戦を聞かせてやるとしよう。“あの人”からの指示を基にして、俺が立てた神白攻略作戦を…)
渋沢は再びボードに向かった。
遠くで、また女の悲鳴が聞こえた。しかし、渋沢の関心がそちらへ向けられる事はもはや無かった。
*
ノートパソコンの電源を切った安城は、茶色の封筒をデスク脇に置いた発送箱の中に放り込んだ。フロッピーディスクが一枚入っているだけのその封筒には、“E中隊中隊長 倉沢少尉宛”と大書きされている。
「さてと…」
大きく伸びをしてイスから立ち上がり、壁際にしつらえた簡易ベッドに腰を下ろす。ベッドの横には小さなテーブルが置かれており、金属製のマグカップと水筒、そして保温ポットが並んでいた。
カップに水筒の中身を注ぐ。水ではない。KCD技術部の自称“酒造課長”小森幸展少尉が造った芋焼酎だ。アルコール度数が高いだけが取り得の、お世辞にも旨いとは言えない代物だ。
「ちっ」
安城は小さく舌打ちした。持ち上げたポットが空だったからだ。いつもなら、柑橘類の絞り汁を混ぜた湯が満たされているのだが…。
小川さゆりがC中隊に配属されてから二週間近くが経つ。職務は中隊長付き護衛兵。つまり、中隊長である安城の護衛と雑用がその任務だ。だが、取り立てて用が無い時でも、彼女は安城の傍に居る。極端な話、眠る時以外はいつも安城の声が届く範囲に待機し、そして、職務の合間を縫っては何やかやと話し掛けてきた。“誰かが誰かに好意を持っている”とか、“今日の運勢は…”などと言うような当たり障りの無い、そして他愛の無い話題がその多くを占めた。
安城が寝酒に焼酎を飲むことを知ると、頼みもしないのに、柑橘類の果汁を混ぜた湯をポットに入れて用意して呉れるようになった。
「私の父も、よく焼酎を飲んでました。でも、ストレートで飲むより、柑橘類の絞り汁を入れた湯で割った方が美味しいし、体にも良いんですよ。それから、余計な事かもしれないけど、タバコは少し控えた方が良いですよ。安城さん自身の為にも、周りの人の為にも」
最初の頃は、さゆりの埒も無いお喋りに煩わしさを感じたし、湯割りやタバコに関しては「余計な御世話だ」と、内心舌打ちしていた安城だった。だが、この頃では、さゆりと他愛の無いお喋りを交わすのが職務の合間の楽しみになっているし、果汁入りの湯で割った焼酎の味もすっかり気に入ってしまった。タバコも、少なくともさゆりの前では吸わないように心がけている。
「これじゃあ。護衛されているのか、管理されているのか判らないな」
と、苦笑いしながら。
今日の夕方、F中隊隊員の遺骨を載せた車を見送った時、些細な事からさゆりを怒鳴りつけてしまった。我ながら大人気なかったと思って謝ろうとしたのだが、さゆりは顔を強張らせたまま口をきこうともせず、安城が呼ばない限り近寄ろうともしない。“職務以外の事はやらないし、余計なお喋りもしない”という態度だ。
「そうかよ。そっちがその気なら…」
と、わざと目の前で立て続けにタバコをふかして見せた。だが、チラリと悲しそうな表情を浮かべただけで、さゆりは何も言わなかった。そして通常の勤務時間が終わると、さっさと自分に割り当てられた部屋に引っ込んでしまったのだ。いつもなら、「もう用は無いぞ。早く寝ろ」と安城が言うまで、何かと口実を作っては傍に居るのだが…。
「口うるさいのが居なくて、せいせいすると言うものさ」
一抹の淋しさを紛らわすように呟き、カップの焼酎を一息にあおった。だが、久しぶりに飲むストレートの焼酎は、思いの外に胃にこたえた。
「くそ!」
顔をしかめた安城は、カップを半ば叩きつけるようにしてテーブルに戻した。胸ポケットからタバコの袋を引っ張り出し、中を覗き込む。だが、袋の中には一本しか残っていなかった。
「ちぇっ、もう無いのかよ」
火をつけてイライラとふかす。いがらっぽい煙が狭い部屋に充満した頃、遠慮がちなノックの音がした。
「誰だ?!」
不機嫌な声で応じる。
「小川です。入って良いですか?」
「ちょっ、ちょっと待て」
慌ててタバコの火を消して立ち上がり、窓を開け放つ。冷たい夜気と入れ替わりに、タバコの煙が出ていった。
「何の用だ?」
殊更に不機嫌な表情を作ってドアを開けると、左手にヤカンを持ったさゆりが、強張った表情で立っていた。
「お湯を持って来ました。それから、これを…」
ポケットからタバコの袋を取り出し、安城に差し出す。
「遠村さんからです。“配給のタバコだけど、俺は吸わないから安城少尉に渡してくれ。そろそろ無くなる頃だろうから”って」
「遠村が?」
さゆりを怒鳴りつけた時、遠村が少し離れた所に居たことを思い出した。そして同時に、気遣わしげな表情を浮かべて安城とさゆりを見ていた事も思い出した。
(小川にタバコを届けさせる事で、仲直りの機会を作って呉れた訳か? 四角四面なだけのヤツだと思っていたが、結構、気が廻るんだな)
「あいつには感謝しなくちゃな」
“生真面目な男”という表現にぴったりの遠村の顔を思い浮かべながら、口に出してボソリと呟く。
「え? なにか?」
「いや、何でも無い。有り難く頂くよ。それから、お湯も。焼酎は、湯割りで飲むのが一番美味いからな」
そう言ってから、いつのまにか自分が微笑んでいることに、安城は気付いた。
「さっきは済みませんでした。私、生意気な事を言ってしまって」
さゆりが、ピョコリと頭を下げた。その拍子に、戦闘服の襟元からうなじが覗いた。その儚いほどに細く白いうなじを見て、安城はなぜかうろたえてしまった。
「い、いや、謝ることはない。済まなかった。俺が言い過ぎたんだ。君の言った通り、希望は持たなければいけない。さ、さあ、顔を上げてくれ」
「本当に? そう言って頂くと嬉しいです」
顔を上げたさゆりは、嬉しそうに笑った。
以下次号