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なお、本日よりブログタイトルを変更しました。
蒼い水 作 FKRG
第2章 待ち伏せ3
玲子が居た。父と母、妹の典子も居る。
桜も居た。芝生に広げたシートの上に胡座をかき、まるで安城家の一員のような顔をして御馳走をぱくついている。
「おい、桜、少しは遠慮しろよな。さっきから、お前一人で食ってるじゃないか」
「ん? んぐぐぐ…」
口一杯に頬張っていた卵焼きを喉に詰まらせた桜は、目を白黒させて呻き声を漏らした。
「桜さん、お兄ちゃんの言う事なんか気にしなくて良いのよ」
典子が、紙コップに入れたお茶を差し出す。
「ん、んぐ、んぐ…。ぷふぁ~」
受け取ったお茶を飲み干して卵焼きを胃に収めた桜は、ホッとした表情を浮かべた。
「いや、すまん。あんまり旨くてな。“オフクロの味”って言うのか? こんなに旨い卵焼き、久しぶりなんだよ」
照れ笑いを浮かべて頭を掻いて見せる。だが、その目にはどこか淋しげな光りが浮かんでいた。
今日は、安城と桜が在籍している陸上防衛軍士官学校において、二ヶ月に一度の割合で開かれる面会日だ。面会時間は半日も無いが、家族や友人知人と自由に過ごす事が出来る。富士山麓にあるこの士官学校まで、安城の家族と婚約者の玲子は、戦争の為に各所で分断した交通網を辿ってやって来たのだ。
だが、桜には誰一人面会者はいなかった。面会会場の片隅で所在なげにタバコをふかしていた桜をここに連れてきたのは、他ならぬ安城本人だった。
「あらあら、遠慮しなくても良いんですよ。もっと食べてください。でも、その卵焼き、私じゃなくて玲子さんが作ったんですよ」
母が嬉しそうに笑った。その横に座った父も目を細めて微笑んでいる。
「玲子さんが? いいなあ、安城。こんなに旨い卵焼きを作れる人と結婚出来るんだから。お前は本当にシアワセモノだよ」
「桜、相変わらず口だけは巧いな」
笑いながら安城は、残り少なくなった卵焼きの一つを口に放り込んだ。ゆっくりと噛み締める。旨かった。本当に…。
顔を上げると、すぐ目の前で玲子が微笑んでいた。その笑顔を見ている内に、たまらないほどの愛おしさが込み上げて来た。
「玲子、ちょっと歩こう」
玲子の手を取って立ち上がり、少し離れた林に向かって歩き出す。
「いよっ! お二人さん」
背後から桜の冷やかし声が聞こえたが、無視して歩き続けた。
林の中の小道をしばらく歩くと小さな空き地に出た。周りには誰も居ない。安城は玲子の腰に手を廻した。優しく引き寄せ、柔らかい体を力一杯抱き締める。
「玲子」
「弘一さん」
互いの顔を見つめあい、微笑みあった。どちらからとも無く唇を近づける。
二人の唇が重なりかけた時、それまで聞こえていた小鳥のさえずりが不意に聞こえなくなった。
「…?」
安城は周囲を見廻した。さっきまでの青空が、目も眩むような真っ白な光りに包まれていた。熱い、焦げそうなほどに熱い。
「弘一さん!」
耳元で、玲子の悲鳴が聞こえた。
慌てて視線を戻すと、玲子の美しい顔は…あの笑顔は、そこに無かった。焼け爛れた肉塊の中に黒目勝ちな大きな目だけが残り、哀しげに安城を見つめている。
そして、全てが灰になり崩れ去った。ついさっきまで腕の中に感じていた玲子の柔らかな体の感触は、霞のように消え失せた。
「玲子!」
自分の叫び声で、安城は目を覚ました。
板張りの床に横たえていた体を起こし、辺りをキョロキョロと見回す。狭い小屋の中だった。すぐ目の前の土間に、赤錆びたストーブがあった。その中で薪がチロチロと燃え、ボンヤリと辺りを照らしている。埃を被った木箱や材木が壁際に積み重ねられていた。
(ここは、どこだ? 玲子は? 桜は? オフクロやオヤジ、妹の典子は?)
頭がズキズキする。顔…いや体全体が汗でびっしょり濡れていた。額から何かがポトリと膝の上に落ちた。それは淡いピンク色のハンカチだった。
「目が覚めた?」
振り向くと、さゆりが立っていた。ホッとしたような、だがどこか淋しげな表情を浮かべて、夢の中で見た玲子にそっくりの黒目勝ちの大きな目で安城を見つめている。
記憶が、徐々に蘇ってきた。
バンディッツの待ち伏せに遭い、肩を負傷し気を失った。意識を取り戻した時、ジープは見知らぬ山中に停まっており、三木と川口は既に息絶えていた。ジープのエンジンはどこをどうしても掛からず、無線機も使い物にならなかった。
やむなく、持てるだけの装備を持ってジープを離れた。三木と川口の埋葬は、敵が追撃してくる可能性を考えると諦めざるを得なかった。
県道は避け、山沿いに奥川村ダムを目指した。日が暮れかける頃、雨が降り出した。激しく降る雨の中、半ば朽ち果てた作業小屋を見つけた二人は、そこで一夜を明かすことにした。
携帯口糧で食事を済ませた後、肩の傷が痛み出すと同時に激しい悪寒と熱が襲いかかって来た。鎮痛剤と抗生物質を飲んだ安城は、半ば気を失うように深い眠りの淵に引き摺り込まれたのだった。
「夢を見てたの? お父さんやお母さん、妹の典子さんの夢? 桜さんの夢? …そして、玲子さんの夢?」
さゆりの目に涙が浮かんだ。涙は急速に膨れ上がり、ポロポロと頬を伝い落ちていく。その涙を上着の袖で乱暴に拭ったさゆりは、くるりと安城に背を向けた。華奢な肩と、握り締めた両の拳が小刻みに震えている。
「さゆり」
よろめきながら立ち上がった安城は、さゆりの前に廻った。
さゆりは顔を真っ赤にして俯いていた。きつく閉じた瞼から涙が流れ続けている。
「夢の中で…玲子さん…。何度も…。でも、私の名前は…。まだ、玲子さんを…。判ってる。でも、でも…」
切れ切れの、殆ど意味を為さない単語の羅列。だが何を言いたいのか、安城には痛いほど判った。
「済まなかった」
さゆりを抱き寄せた。きつく抱きしめる。肩の傷が鈍く疼いた。
さゆりが顔を上げた。閉じていた瞼を開き、安城を見つめる。その目は赤く充血し、目元に隈ができていた。安城の看病と周囲の警戒の為に一睡もしていなかったに違いない。
「でも今は…。さゆり、おまえだけだ…」
さゆりの唇に自分の唇を重ねた。さゆりは再び目を閉じた。ただし、今度は柔らかくそっと…。二人にとって二度目の、そして最初の時より長いくちづけだった。
雨は上がっていた。窓の外に広がる闇が青みを帯びている。夜明けが近い。
*
空がすっかり明るくなった。木々の葉に溜まっていた雨粒が音も無く地面に落ちていく。
蒼い水先遣部隊隊長 黒畑芳正は、雨をしのいでいた木陰からもぞもぞと這い出した。防水ポンチョを脱いでホッと一つ溜息をつき、胸ポケットから皺くちゃになったタバコの袋を取り出す。守川町で殺したKCD兵士のポケットから頂戴したタバコだ。もう、二本しか残っていない。
「これだけか…」
わびしげに呟き、口に咥える。
ライターを取り出そうとポケットを探りかけた時、火のついたオイルライターが目の前に差し出された。
「うん?」
目だけ動かし、ライターの持ち主の顔を見る。デルタスリー…第三小隊小隊長の元原だった。
ニヤリと笑った黒畑は、両掌でライターを囲うようにしてタバコに火をつけた。
「吸うか?」
最後の一本が入った袋を元原に突きつける。
「いや、いい。吸わないんだ」
手を振って断わる元原を、黒畑は訝しげな顔で見つめた。
「じゃあ、なんでライターを持ってるんだ?」
「昔…女房と知り合った頃、誕生日か何かのプレゼントで貰ったんだ。その頃はヘビースモーカーだった。結婚して子供ができた時、止めたよ」
そう言うと元原は、傍らの枝から透き通るような緑色の葉を引き千切り、口に咥えた。
「稼ぎが、少なかったからな」
小声で付け加え、照れ臭そうに微笑む。
「ほう。…で、奥さんと子供は?」
元原の顔から笑いが消えた。
「死んだよ。大阪に家があった。戦争が始まって四年目の春だった。家のあった場所は跡形も無かったよ」
「そうか、大阪空爆か…。悪かったな、思い出させて…」
「昔のことさ。アンタも似たようなものだろう?」
「ああ」
黒畑の脳裏に女の顔が浮かんだ。
惚れ合って、結婚の約束をした女。だが、籍を入れる前に黒畑は戦場に赴くことになった。出征の前夜、女は泣きながら正式に結婚して呉れとせがんだが、黒畑はそれを拒否した。
「必ず生きて帰る。生きて帰って、おまえと一緒になる。だが、もし…もし万一、俺が死んだら。その時は他の男と…俺よりもっとマシな男と一緒になってくれ」
黒畑が戦地から帰った時、女の住んでいた街は瓦礫に埋もれていた。消息は不明。つまりは、死んだという事だ。
「似たようなもんだ」
小さく溜息を漏らし、タバコの袋を、もう一度元原に突きつけた。
「吸えよ。別れの杯ならぬ、別れのタバコだ」
「ん?」
元原が、眉をひそめた。
「さっき、本部から指令が入ってな。いったん西へ戻って、浅井と大村の部隊に合流しろとさ。お前は、第三、第四小隊と共に浅井の西部遊撃隊に、俺はその他の小隊と共に大村の東部遊撃隊に加わる。だから、別れのタバコなのさ」
元原は少しの間躊躇していたが、やがてタバコを受け取り、口に咥えた。今度は黒畑が自分のライターを取り出し、火を点けてやった。
「旨いか?」
「ああ、旨い。ちょっとクラクラするけどな。またヘビースモーカーに戻りそうだ。稼ぎが無いのに、な」
うっとりと煙を吐き出しながら、元原は答えた。
「安心しろ」
黒畑は、軽く肩をすくめてニヤリと笑った。
「幾ら吸いたくても何処にも売ってない。買おうにも買えない。だから、ヘビースモーカーに戻ろうにも戻れない」
「それも、そうだな」
元原も小さく笑った。
*
神白の全住民が神白市街地に移住したAD二〇一一年春、市政運営委員会という名の組織が設立された。二十才以上の神白市民から選出された委員によって構成されるこの組織は、神白住民への衣料、食糧の配給と住居の管理維持を職務とする管理部、食料衣料等の生活必需品の生産を行う生産部、そして子供達への教育と住民への医療を行う教育医療部の三部門から構成されている。
KCDに所属しない神白の住民は全て、運営委員会の指導の下に働いている。ある者は田畑を耕して米や野菜を作り、ある者は家畜を飼育し、大工や左官の心得がある者は老朽化した住居を直し、裁縫が得意な者は古着のリニューアルにいそしんでいる。
これらの労働に適さない子供や老人達も、漫然と過ごしているわけではない。海辺や川で魚を獲り、海藻や貝を採る。或いは野原に出かけて食用になる野草を摘む。食卓に、ささやかな一皿を添えるために…。
市政運営委員会と市民たちを率いているのは、言うまでもなく神白市長兼KCD司令官である島崎順一だ。決して逞しいとは言えない彼の双肩には、神白の住民二万人の現在と未来がかかっているのだった。
島崎順一は市庁舎三階にある市長室に立っていた。南に向いた窓から山々がかすんで見える。その山の麓で、僅か三日の間に、百数十名の兵士と二人の中隊長が死んだ。
(安城と三人の兵士は行方不明、と言うことだが…。おそらく、生きてはいまい)
脳裏に、桜と安城の顔が浮かんだ。
彼らと酒を飲んで語り合ったことがある。陽気な桜、ちょっと翳があるが実直な安城。良い若者達だった。二人ともまだ二十代の半ば、島崎から見れば息子のような年齢だ。
(いや、KCDの兵士達は皆、若い。皆、私の息子、娘だ。これからも私は、彼らに“死ね”と、命じ続けるのか? 私に、そんな命令を下す資格と権利があるのか? 何百人もの命を犠牲にしてまで守るほどの価値が、この神白にあるのか? わからない。どうすれば良いのだ。わからない…)
苦悩する島崎の耳に、ノックの音が聞こえた。
「誰だ?」
「正田です」
「入りたまえ」
振り向きもせずに答える。
「失礼します」
ドアが開き、正田ひとみ上級兵が入ってきた。遠慮がちな足取りで島崎のデスクに近づき、一枚の書類と大ぶりのグラスをそっと置く。
「戦死者名簿をお届けに上がりました。葬儀は午後からの予定です。出席されますか?」
「無論だ」
振り向いた島崎の顔は青白くやつれ、目は赤く充血していた。この二、三日というもの、ほとんど寝ていないのだ。
「大丈夫ですか? 今日の予定はキャンセルしてお休みになられては? 無理をされると、お体に障ります」
気遣わしげな口調で休養を勧めるひとみを、島崎は苛立たしげな声で怒鳴りつけた。
「無用だ。市民全員が懸命に働いているというのに、私一人が休むわけにはいかん。君は私に“怠け者になれ”と、言うのか?!」
「も、申し訳ありません。差し出がましい事を言って…」
ひとみは、顔を赤くしてうなだれた。肩が震えている。
島崎は、激しい自己嫌悪に襲われた。
(正田は、私の体を気遣ってくれている。それなのに私は…)
デスクの上に置かれたグラスに視線を向ける。グラスには緑色の液体が満たされていた。ひとみが毎朝、島崎の為に作ってくれる蜂蜜入りの野菜ジュースだ。
ひとみの職務は島崎の護衛兼秘書だが、もっとも重要な仕事は島崎のスケジュール管理だった。
市政に関する全責任を負う島崎の日常は、当然ながら多忙を極めている。早朝からデスクに向かい、提出された膨大な書類…とは言っても、その大半はパソコン上のファイルだが…に目を通し、必要とあれば担当者を呼んで説明を聞き決裁する。日に一度は、市政運営委員会のいずれかの部門の会議に出席し、各分野における問題点について善後策を協議する。
そして、少しでも時間があれば、街に出て現状を視察する。視察と言ってもただ歩きまわるだけではない。住民に混じって田畑を耕したり、足腰が弱いが為に配給所まで来ることが出来ない老人の元へ、食料や衣料を運んだりする事もしばしばだ。さらに最低でも週に三日は、市街地内十数ヶ所にある集会所のいずれかに赴いて住民達の意見要望を直接聞き、市政に反映させることを心掛けている。
責任感の塊のような島崎は、放っておけば文字通り寝食を忘れて働き続けてしまう。その為、過去何度か過労で倒れてしまった事があった。
そのような事にならないように、ひとみは島崎の傍に影のように付き従ってスケジュールを調整し、時には無理矢理にでも休養を取らせる。それが職務だと言えばそれまでだ。だが、彼女の島崎への接し方は、単なる秘書の域を越えていた。その言動は、父親の身を案ずる娘のような愛情に満ち溢れている。
早くに妻を亡くし子供もいない島崎は、献身的に自分に仕えてくれるひとみを実の娘のように思っている。そしてそれ故に、つい甘えが出てしまい、他の人間には決して見せない剥き出しの感情をひとみにぶつけてしまうことがあった。
今も、そうだった。心労から来る苛立ちに、ついひとみを怒鳴りつけてしまったのだ。
「い、いや。すまん。謝るのは私の方だ。つい、八つ当たりをしてしまって…。そうだな、君の言う通りだ。少し休もう。午前中の予定はキャンセルできるか?」
狼狽した声で島崎が尋ねると、ひとみは顔を上げた。目に浮かんだ涙を指で拭い、明るい声で答える。
「はい。管理部との打ち合わせがありますが、これは合同葬儀が終わった後にすれば良いかと思います」
「では、そうしよう。すまないが、私はちょっと休ませてもらう。もし緊急事態が起きたら、すぐに起こしてくれ」
「承知しました」
「正田上級兵」
踵を返しかけたひとみを、島崎は慌てて呼び止めた。
「はい、何でしょうか」
「その、なんだ。プライベートな事を聞くのは気が引けるが…。彼とは…竹田少尉とは巧くいっているか?」
「ご存知、だったんですか? え、ええ、巧くいっています」
まさか、“昨夜も、何度も愛し合いました”とは言えなかった。
「知っていたよ。伊達に年はとっていないからね。私にとって、神白の市民は皆、家族みたいなものだ。そして、その中でも特に、君には幸せになってもらいたいのだ」
はにかみながらも真剣な口調で言う島崎に、ひとみはほのぼのとした暖かさを感じた。
「父さんが納得するような男を見つけて、そして幸せになってくれ」
ひとみがデートをするような年頃になった時、ひとみの父は、今の島崎と同じ表情と口調で言ったものだ。
だが、その父親はもうこの世にはいない。いや、それどころか血の繋がった者は誰一人として、この世に存在していない。
(でも、その代わり、今の私には島崎順一という父親がいる。そして、愛する人と仲間達が…)
「ありがとうございます。きっと、きっと幸せになります」
島崎のやつれた青白い顔に、満面の笑みが浮かんだ。だが、その笑顔はすぐにぼやけ始めた。
ぼやけたのは、ひとみの切れ長の目に湧き出した涙のせいだった。