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蒼い水 作 FKRG
第3章 監禁3
小さな天窓を通して、無数の星が瞬く夜空が見える。
床の上に仰向けに寝転がった安城は、もう二十分近くも、その空を眺めていた。静かだ。浴室から時々聞こえてくる水音の他には、微かな虫の鳴き声しか聞こえない。
壁に掛けられた時計は八時二十分をさしていた。拘束されてから既に十時間以上。市民保養センターから目と鼻の先にあるこの小さなロッジに監禁場所を移されてからでも二時間が経っている。
「なんとも馬鹿な話だ。山の中をさまよった挙句に、仲間によって監禁されるとは」
何度目かの愚痴を溜息と共に漏らす。
今朝、ロビーで銃を向けられ裏切り者呼ばわりされた時、反論しようとも考えた。だが、ロビーには五人しかいなかった。自分とさゆり、そして秋川と二人の兵士だけ。声高に反論しようとすれば、裏切り者の汚名を着せられたまま、さゆりもろとも射殺される可能性があった。
「生きてさえいれば何とかなる」
そう考え、大人しく監禁されたのだった。
長い間、使用されていなかったらしいロッジの外観は夜目にも薄汚れていた。真新しいのは、逃亡防止の為に窓の外側に打ち付けられた角材だけだった。
「大変だったのよ。色々と」
ロッジに案内した吉野晴美は、安城の顔を見ながらクスクスと笑った。
「監禁場所をここに移すように、熊さん・・・いえ、秋川少尉を説得するのには苦労したわ。その上、このロッジの準備も意外と手間取ってしまって…。その間、物置に居てもらったんだけど。あんな埃っぽくて薄暗い所に閉じ込めちゃってて、ホントにごめんなさい」
何とも言えぬ愛嬌のある笑顔を浮かべて、ペコリと頭を下げる。
「いや、そんな事は気にしていない。気を遣ってもらってありがとう」
つられて頭を下げた安城だったが、晴美との会話にまるで緊張感が無い事に気付いて思わず苦笑してしまった。本来は安城達の監視役なのだろうが、どう見ても晴美の従兵としか見えない二人の兵士も、今にも噴き出しそうな顔をしている。
(吉野上級兵と話をしていると、どうにも緊張感が削がれる。俺と秋川が、“生きるか死ぬか殺すか殺されるか”という剣幕で遣り合った事を知っている筈なのに、この落ち着きぶり。まるで、幼い兄弟が喧嘩しているのをニコニコ笑いながら見守っている母親みたいだ。“いよいよとなれば首根っこを掴んで引き剥がし、お説教すれば良い”とでも思っているんだろう。さゆりが言ったように、彼女は母性の塊のような人だ。男でも女でも、誰でもが母親に接するような気持ちで甘えたくなる人…)
それまで頭の中を占めていた“脱出”という二文字が急速に色褪せていくのを、安城は感じていた。
「監禁という事なので窓や扉は塞がせてもらうけど、精一杯、過ごし易くした積もりだから、今夜はゆっくり休んでね。明日になれば秋川もきっと考え直すわ。夕食を用意してあるから、二人で仲良く食べて頂戴。それじゃ、ごゆっくり」
一方的にしゃべりまくった晴美は、何か言い掛けようとする安城を無視して、さっさとドアを閉じてしまった。
施錠する音が聞こえ、ドアに板を打ち付ける音が続いた。その音が止むと、晴美の大声が聞こえてきた。
「さ、行くわよ。あら、あんた達、何してんのよ? え? ここの見張りに立つ。バッカじゃないのっ! これだけ厳重に塞いどいてさ…。え? “万に一つにも逃げられないよう警戒しろ”と、中隊長から命令された? な~にを言ってんだか。警戒するのなら、仲間じゃなくて敵に対してしなさいよ。…ったく。ほら、行くわよ。グズグズしてると、晩御飯を食べさせないわよ」
三人分の足音が遠ざかって行くと、安城とさゆりは顔を見合わせた。
「君の言った通りの人だな。吉野上級兵は…」
「そうでしょう。私の言った通りの人でしょう?」
二人は、同時に笑い出した。
壁にもたれて笑った。腹を抱えて笑った。笑いすぎて目に涙が浮かぶほど笑い転げた。こんなに笑うのは何日ぶりだろう?
ようやく笑いが収まると、改めてロッジの中を見渡した。
小さなロッジだった。半坪ほどのタタキを上がると、廊下を挟んで右側が小さなキッチン、左側はトイレと浴室。廊下の奥は数メートル四方の板張りのフロアになっている。質素な作りだが、小綺麗に掃除され整えられていた。
(吉野上級兵が掃除したのか?)
晴美の丸っこい鼻の頭が、埃で汚れていた事を思い出した。
しかし、幾ら綺麗にしてあるとは言え、監禁小屋であることに違いはない。窓という窓は全て頑丈な角材で外から塞がれ、フロアの天井に嵌め込まれた天窓までも、十文字に木材が打ち付けられている。それなのに圧迫感や閉塞感をほとんど感じないのは、壁のあちこちに取り付けられたランタンのおかげだろう。それらが放つ柔らかく暖かい光は、狭いロッジに押し込められた二人の気持ちを和ませるのに充分だった。これも晴美の配慮なのだろう。
「二人で仲良く食べて頂戴、か…」
「…えっ! 二人でって…?」
二人は、もう一度、顔を見合わせた。そして、同時に顔を俯けた。暫くの沈黙。
「私が、言った通りの人でしょう?」
「ああ、君の言った通りの人だ。面倒見がすごく良い」
俯いたままさゆりが言い、安城も俯いたまま頷いた。
今度は、二人とも笑わなかった。
フロアに置かれたテーブルの上には、肉や魚、山菜などを盛りつけた大皿とコンロと鍋が置かれていた。
安城とさゆりは、グツグツと音を立てる鍋越しに向かい合って夕食を摂った。
「吉野上級兵は、“秋川を説得するのに苦労した”と言っていたが、具体的には、どうやって説得したんだろう」
「私にも判らない。でも多分…」
「多分?」
「“よしよし、いい子だから私の言う事を聞きなさい”って、頭を撫でたんじゃないかな」
「はあっ?」
安城は、食べかけていた肉を噴き出してしまった。
「なんだよ、それ。まるで子供扱いじゃないか」
「だって、そうなんだもん。ずっと前、晴美さん、笑いながら話してくれたわ。“秋川はね、熊みたいな体つきをしてるくせに、凄い甘えん坊なの。私のこと好きみたいだけど、それは恋人としてではなくて、母親か姉としてなのよ。失礼だと思わない? 私は二十四歳で、しかもアイツより年下なのよ”って」
「母親か姉、ねえ…」
赤ん坊のように体を丸めた秋川が、晴美に頭を撫でられて目を細めている光景を想像して、安城は肩をすくめた。
「本当にそんな事はしないだろうけど…。巧く言えないけど…。そんな風な感じで説得したんじゃないかな?」
さゆりはクスクス笑いながら付け加えた。
もし傍に晴美が居たら、「なんで、私が熊さんの頭を撫でてやらなきゃならないのよ。デスクを叩きながら怒鳴りつけてやっただけよ」と、苦笑いした事だろう。
大皿に盛られた具材は一時間も経たない内に綺麗に無くなり、食器を片付けると何もする事が無くなった。話題も途切れ、二人は黙ったままじっと見つめ合った。
「お風呂、入れようか?」
唐突に立ち上がったさゆりは、安城の返事を待たずに浴室へ向かった。ロッジには、温泉の湯と裏山から湧き出す清水が引かれている。
暫くして、さゆりが戻ってきた。
「お湯、溜まったわ」
「君が先に入れよ。俺は後で良い」
「うん」
その時、壁に掛かった時計が、“ぽーん”と八時を告げる鐘を鳴らした。
「あ~、気持ち良かった」
さゆりの明るい声と共に、ほのかな石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。いつの間にかまどろんでいた安城は、慌てて時計を見上げた。
八時三十五分。
「じゃあ、今度は俺が…」
ゆっくりと立ち上がって振り向いた安城は、目を丸くして口を噤んだ。
廊下とフロアの境目に、浴衣姿のさゆりが立っていた。ランタンの光りを受けて湯上りの頬はピンク色に染まり、黒目勝ちの大きな目がキラキラと輝いている。
(なんて可愛いんだ)
マジマジと、さゆりを見つめる。
「そんなに見つめないで」
恥ずかしげに俯いたさゆりの、浴衣の襟からのぞく白いうなじが眩しかった。
「お湯、入れ直しといたから」
俯いたまま小声で言う。
「う、うん」
頷いた安城は、さゆりの横をすり抜け、浴室に付属した小さな脱衣場に飛び込んだ。床に置かれた乱れ籠の中に、きちんと畳んだ男物の浴衣が入れてあった。さゆりが着ていた浴衣も含めて、全て吉野晴美が用意したのだろう。
「ホントに面倒見の良い人だ」
汗と埃に汚れた戦闘服を脱ぎながら、安城は戸惑った笑いを浮かべた。
温かい湯に首まで浸かりながら、無色透明な湯を両掌に掬い上げてみた。だが、掬い上げた湯は指の隙間から流れ落ち、すぐに無くなってしまう。子供のように何度も同じ事を繰り返している内に、秋川の顔が脳裏に浮かんだ。
(秋川もこうやって湯に浸かって、傷つき疲れた体と心を癒していたのだろうか? 考えてみれば、俺も言い過ぎた。重傷を負って生死の境をさまよえば、誰だって弱気になる。それなのに俺ときたら、桜のことが頭から離れず、その八つ当たりもあってアイツを頭ごなしに怒鳴り散らすばかりで…。アイツの言い分も、ちゃんと聞いてやれば良かった。…もう一度、話してみよう。きっと判ってくれる)
「仲間じゃないか…」
声に出して呟いてみた。仲間、良い言葉だ。だが…。
(仲間といえば、俺に銃を向けた二人の護衛兵は、G中隊ではなく親衛中隊所属のヤツだった。名前は、確か…杉原と川島。あの二人は、何故ここに居るんだ? 負傷しているようには見えなかったが…)
浴室を出るとフロアは薄暗くなっていた。壁に掛けられたランタンが、一つを除いて全て消されている。一つだけ火の点いたままのランタンも、消えるか消えないかまでに炎を細められていた。
ユラユラと頼りなげに揺れるオレンジ色の小さな光りの下で、浴衣姿のさゆりが立っていた。
「あんまり長いから、浴槽で溺れてるんじゃないかと心配したわ」
小首を傾げて微笑む。薄いピンク色の唇の間から、真珠のような白い歯が覗いている。
「君ほど、長湯じゃないよ」
苦笑しながら時計を見上げた。八時五十五分。
「さゆり」
ささやき声で名を呼び、その華奢な体を抱き寄せた。ほのかに甘い匂いがした。神子川河口で昼寝をしていた時、さゆりに起こされた。あの時と同じ匂いだ。
(あの日から、俺もさゆりも風呂に入るヒマなど無かった。男の俺はともかく、さゆりは女だ。いや、女の子か? 戦争さえなければ…。こんな時代じゃなければ…。毎日、風呂に入って。朝シャンって言ったっけ? 毎朝、髪を洗って。シャワーコロンなり香水なりをつけて、おしゃれな服を着て…。…どうして、世界はこんな事になっちまったんだ? なぜ、俺達は戦争なんかしちまったんだ? なんで、こんな可愛い娘が銃を持たなくちゃいけないんだ? なんで? なんでなんだ!?)
やり場のない怒りと切なさに耐え切れなくなった安城は、さゆりの体を力一杯抱き締めた。
「痛い」
さゆりが、小さな悲鳴をあげた。
「あ、ごめん」
慌てて腕の力を抜く。
「どうしたの? そんな真剣な顔をして?」
不安そうに安城を見つめる。
「いや、君が…さゆりが、あんまり可愛いから」
たどたどしく答えた。
「本当?」
「本当だよ。さゆり」
ニッコリ笑ったさゆりは、目を軽く閉じた。そして、唇を小さく開いた。安城は、その唇に自分の唇を重ねた。
“ぽーん”という音が狭いロッジに響いた。壁に掛けられた時計が九時を告げたのだ。それから時計の長針が“1”を指すまで、二人はそのままでいた。やがてどちらからともなく唇を離し、お互いを見つめ合った。
安城の頭の中に、あるメロディーが浮かび上がった。
“The Boy met the girl one day”
学生の頃、歌が好きな友人がいた。そいつが作った歌だ。砂糖に蜂蜜をぶっ掛けたような甘ったるいメロディーと、月並みな英単語を並べただけの、そして文法にかなっているのか判らない歌詞。
だが、なぜか心に残っていた。そして今、不意に思い出したのだ。
“And they fall in love”
さゆりを抱き上げた。もう一度、その目を見つめる。
「いいのか、俺で?」
さゆりは、コクリと頷くと目を閉じた。
“He wanted her, and she also wanted him”
フロアには、洗いたてのタオルケットが敷かれていた。さゆりをその上に横たえる。この世で一番大切な宝物を扱うように、そっと…。
“He embraced hercloseiy”
虫の鳴くような低い音を立てて、ランタンの火が消えた。ロッジの中は、天窓から差し込む月の光が作り出す青い闇に包まれた。
やがて、闇の底から衣擦れの音と小さな喘ぎ声が聞こえ始めた。喘ぎ声は長く、そして短く、切れ切れに続いた。
“It is gentle and powerful”
壁に掛かった時計の短針が“10”を指した時、さゆりの喘ぎ声が大きくなった。そして…。
“ぽ…”
鳴りかけて、時計は止まった。
“…forever.”