[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
蒼い水 作 FKRG
第3章 監禁7
神白市街地の西北、日本海に注ぎ込む鳥井川の河口部東側に、不燃物廃棄場跡を埋め立てて造成された広場がある。その数百メートル四方の広場を、KCDは射撃訓練場として利用していた。
十人ほどの男達が、訓練場に面した川土手の斜面に掘られた弾着観測用の塹壕の中にいた。彼らの視線は、広場の中央に向かってゆっくりと移動する棺桶のような物体…KCD技術部製作の自走爆弾ゴリアテ…に注がれていた。
「そうか、梨村はクビか…」
小振りなスーツケースを思わすコントローラーによってゴリアテを遠隔操作していた小森が、そっけない口調で言った。
「クビとは、また随分キツイ言い方だな」
小森の右隣に立って、ゴリアテの操作方法を熱心に聞いていた倉沢が苦笑いした。
「キツク言おうが、優しく言おうが同じ事さ。適材適所、自分の能力に見合った部署に就くのが一番良い。それが物の道理ってもんだ。ねえ、そうでしょう? 楠木さん」
塹壕の内壁に寄りかかってタバコを吸っていた西脇が、隣に立つ楠木に話しかけた。
「うん? まあ、な。だが、そうは行かないのが世の中と言うものさ」
曖昧に答えた楠木は、塹壕の中に視線を巡らした。
ゴリアテのお披露目に顔を出している幹部は、楠木と倉沢と真宮だけだった。膨大な職務に追われている川村と、参謀を解任されたばかりの梨村が来ないのは当然としても、竹田と北川が来ていないのは不自然だ。車を使えば五分もかからない距離だと言うのに…。
「梨村の更迭を迫った俺は勿論、倉沢たち攻勢派の顔など見たくも無い、と言うところか…。まさに、“守勢派幹部と攻勢派幹部の確執”だな」
楠木はそっと溜息を漏らした。
*
川村翔が百五十名ほどの兵を率いて神白に現われたのは、WW3も末期のAD二〇一〇年三月だった。川村は、当時の地下燃料備蓄庫守備隊隊長であった楠木に一通の命令書を提示した。陸上防衛軍参謀本部人事統括課発行のその書類には、“楠木清三中尉に代わり、川村翔中尉を神白地下燃料備蓄庫守備隊隊長に任ずる”と記されていた。
指揮官交代の場合、旧指揮官には別の任地への転出命令が同時に出るのが通例だった。だがこの時にはそれは無く、代わりに“旧指揮官は新指揮官を補佐せよ”という命令がしたためられていた。楠木の階級は川村と同じ中尉だったが、命令とあらば従うしかない。楠木は、二百五十名の部下たちと共に川村の指揮下に入った。
AD二〇一〇年十月、WW3終結。防衛軍は消滅し備蓄庫守備隊は当然ながら解散となったが、約四百名の守備隊員のほとんどは神白に留まることを選んだ。故郷に戻ったところで、そこには肉親も友人知人も居らず、瓦礫と化した廃墟が残っているだけだということを知っていたからだ。
二ヵ月後のAD二〇一〇年十二月、元備蓄庫守備隊員を中核にしてKCDが創設された。神白市長 島崎を司令官として、川村、楠木、竹田、梨村、倉沢、桜、真宮、北川、秋川、安城らが幹部となり、KCDの運営に携わることになった。
KCDの基本戦略は、“バンディッツの襲撃に対して徹底的に守勢に立つ”だった。創設当初のKCD総兵力は五千を数えたが、そのほとんどは一般市民から徴募した素人兵士であるがゆえに戦闘能力も戦意も乏しく、反撃や攻勢を仕掛けるのは無謀な行為以外の何物でも無い、と幹部達は考えたからだ。
現実もそれを裏打ちしていた。銃を撃つのがやっとの素人兵士達は、バンディッツが姿を現すたびに恐れおののき、“守備拠点という名の穴倉に隠れて、バンディッツという名の嵐が通り過ぎて行くのを震えながら待つ”というありさまだったのだ。このような状況下で神白がバンディッツによって制圧されなかったのは、川村や楠木を始めとする元備蓄庫守備隊員たちの奮闘によるものだった。
この守勢方針は、AD二〇一一年六月に行われたKCD再編成後も継続された。だが、状況はその頃から変化し始めた。元守備隊員たちの蔭に隠れて怯えているだけだった素人兵士達が、バンディッツと言う名の嵐に向かって積極的に立ち向かうようになったのだ。
その変化の要因の一つは、バンディッツの襲撃を迎え撃つという実戦と、その実戦の合間に行われた実戦以上に過酷な軍事訓練によって戦闘能力が向上した事に求められる。
が、それだけでなかった。
生まれ故郷でも無い神白の街を守るために、自らの命を賭して戦う元備蓄庫守備隊員達の姿を間近に見続けていた素人兵士達の心の中に、“自分たちの街は自分たちで守るべきだ”という考え…戦意…が、創設から八ヶ月を経て根付いたがゆえの変化なのだった。
こうして真の意味での市民防衛隊に成りつつあるKCDだったが、皮肉なことにこの好ましい筈の状況の変化は逆に好ましからざる状況を作り上げる要因となってしまった。
それは、KCD幹部の派閥化という状況だった。
初めの頃は、兵士の戦闘能力と士気の向上を背景にして攻勢を唱える幹部と、あくまで守勢を貫こうとする幹部とに別れて議論が展開される、という程度のことだった。攻勢論者は倉沢、桜、秋川、真宮、安城の五人であり。守勢論者は参謀の梨村、竹田、北川の三人だった。年長者である川村と楠木は中立の立場をとって両者の意見の調整を図ったが、攻勢論者と守勢論者との対立は深まりこそすれ浅くはならず、守勢論を唱える幹部は守勢派幹部、攻勢論を唱える幹部は攻勢派幹部と呼ばれるようになった。
そんな中、守勢派幹部と攻勢派幹部の対立が埋め難い溝に変わる事件が起きた。
再編からおよそ四ヵ月後のAD二〇一一年十月、大日本正義団を名乗るバンディッツ集団が神白侵攻を企てた。“奇襲によって神白城址を奪取し、城址を根城として神白市街地を侵食する”というのが、その戦略だった。
大日本正義団の兵力八百に対して、城址守備兵力は百五十名足らず。夜明け直前に、しかも五倍の兵力で奇襲をかける…大日本正義団の幹部たちは勝利を疑わなかった。
だが、城址を守備するE中隊中隊長である倉沢は、彼らの動きを察知した。
倉沢は、二人一組の監視班を十組、二十四時間体制で城址周辺に配置していたのだ。そのうちの一組が、城址西方数キロの山蔭にバンディッツの大部隊が集結しつつあることを報せてきたのは、日付が九月三十日から十月一日に変わった直後だった。
様々な条件から、“敵の襲撃は夜明け直前であり、まずは西の丸跡を攻めるだろう”と予測した倉沢は、部下達に第一級戦闘態勢を下命すると同時に、本部に逆撃作戦…バンディッツが城址攻撃に熱中している間に他中隊を以ってこれを包囲し、城址の内と外から挟撃する…を具申した。
だが、本部からの回答…参謀である梨村の指示…は、いつもと同じだった。いわく“あくまで守勢に徹せよ。夜明けと共に他中隊を動かして敵を牽制する。それで敵は諦め、撤退するだろう”と…。
再度、逆撃を具申したが答えは同じだった。三度目は、副司令官である川村への直接具申を申し出たが、これも梨村によって拒否された。
「相変わらずの守勢論か…。兵士の練度と戦意は創設時とは比べようも無いほど向上している。今こそ守勢一方の戦略を改めて積極策に転じる時なのだ。それが判らないとは…。所詮は、机上の論のみに頼って現状を見ない青びょうたんか…」
無線機のスイッチを切った倉沢は、吐き捨てるように呟いた。倉沢を含めた攻勢派幹部の誰もが、程度の差こそあれ梨村を嫌っていた。エリート候補生として参謀本部に務めていた梨村は、地方軍の、それも実戦部隊出身である倉沢たち攻勢派幹部をとかく下に見る傾向があり、幹部会議の席上においても、彼らの意見を軽視することが多々あったからだ。
本部との連携を諦めた倉沢は、同じ攻勢派幹部が指揮する部隊…神子川風力発電所を守備する安城のC中隊、ビジネスホテル跡を守備拠点とする真宮のD中隊、自動車学校跡に拠点を置く秋川のG中隊、守川町守備の桜のF中隊…に連絡をとり、逆撃作戦への協力を要請し、その了解を得た。
奥川村ダムに駐留する楠木には、連絡をとらなかった。楠木は攻勢派ではないが、元部下である倉沢が頼み込めば兵を動かしてくれる可能性は高い。だが、それでは楠木にまで軍令違反の難が及んでしまう、と考えたからだ。
市街地守備の竹田、北川に関しては一考だにしなかった。守勢派である彼らが応ずる筈も無いからだ。
倉沢の予測通り、大日本正義団は夜明け直前に行動を起こした。だが、西の丸跡に攻め寄せた彼らが目にしたのは、もぬけの殻の陣地だった。E中隊は西の丸跡を最初から放棄しており、その全兵力を本丸跡に集めていたのだ。
肩透かしを食らって呆然とする大日本正義団の兵士達の耳朶を、四方から沸き上がった喊声が震わせた。
「な、なんだ、あの声は!?」
薄らいだ闇を透かして四方を見回した彼らは、我が目を疑った。四百近い兵士が、南と北と西の三方向から西の丸跡を包囲していたからだ。それは、倉沢の要請を受けて駆けつけたC、D、F、G各中隊の兵士達だった。そして東方向…本丸跡には、満を持して待ち構えていたE中隊百五十名が銃口と砲口を彼らに向けていた。
「囲まれてる!」
「俺達は罠に嵌ったのか?!」
「話が違うじゃないか! KCDのヤツらは眠りこけてるんじゃなかったのか?!」
大日本正義団の兵士達は浮き足立った。
彼らはこれまで、幾度も神白を襲撃してきた。だが、KCDは反撃らしい反撃などせずに市街地や守備拠点に閉じこもったまま、彼らが暴れまわるのを見ているばかりだった。それが突如、攻勢に転じたのだ。それも、守備拠点の一部をわざと占拠させておいて包囲するという、大胆極まりない作戦をもってして…。
「馬鹿野郎! 慌てるな! 包囲されたと言っても、こっちは八百人もいるんだ! 反撃しろ!」
狼狽する兵士達を叱咤激励する幹部の声と姿は、雷鳴のような着弾音とどす黒い爆煙に掻き消された。
夜が明け切った頃には、大日本正義団は百五十近い死体とそれに倍する負傷者を残して潰走していた。対してKCD側の戦死者はゼロ、負傷者は数名。完全な勝利だった。
軍令違反に激怒した梨村は、倉沢たち攻勢派幹部の解任を訴えたが、川村はそれを是としなかった。
「軍令違反と言うが、安城少尉はこう言っている。“本部からの指令に間に合うように夜明け直前に城址に到着したのだが、西の丸跡は既に敵に占拠されていた。やむなく、駆けつけた他の中隊と共に敵を包囲した”と…。桜、真宮、秋川も同様のことを言っている」
「では倉沢は? 彼は、“守勢に徹せよ”という命令に背いて、戦わずして西の丸跡を放棄したんですぞ」
「“短時間とはいえ、五倍もの敵を相手にする為には兵力を集中する必要があった。ゆえに西の丸跡は放棄せざるを得なかった”と言っている。これは前線指揮官としては当然の判断であり、軍令違反とは言えまい? それに、五人もの中隊長を一度に解任して、後は誰に指揮を執らせるのだ? 第一、そんなことをすれば兵たちが…いや、市民たちが黙っていない。なにしろ彼らは、憎むべきバンディッツを殲滅せしめた英雄なんだからな」
「……」
梨村は沈黙するしかなかった。
これを機にして、KCDの基本戦略は守勢から攻勢へと百八十度転換した。“神白城址の逆撃戦”以降も、幾つかの有力なバンディッツ集団が神白を襲ったが、そのことごとくが撃退された。
AD二〇一一年十月二十日、守川町を襲撃したバンディッツ集団“統一解放戦線”三百名を、三個中隊を以って包囲撃滅。十一月二日、ビジネスホテル跡を包囲したバンディッツ集団“赤光”三百五十名を逆包囲し殲滅。十二月十三日、奥川村ダムを襲ったバンディッツ集団“サザンクロス”三百名を撃破し潰走させた。明けて二〇一二年一月四日、市街地西郊の自動車学校跡に守備拠点を置いていたG中隊を奇襲した“大日本正義団”と“サザンクロス”の残党三百名を壊滅。
「さわらぬ神白に祟りなし」
そんな声が、北陽地方のバンディッツのみならず隣接する他地方のバンディッツの間にまで囁かれるようになり、神白への襲撃は激減した。
市民達は喜びかつ安堵した。しかし、それとは裏腹に、守勢派幹部と攻勢派幹部との間の溝はより一層深まったのだった。
以下次号